なじめずに、なじんでる私

カメレオンは、身体の色を変えることができ、背景の色に溶け込むことができる。

両方の眼球をそれぞれ個別に動かし、周囲を観察することができる。

必ずしもすべての種が、それをできるわけではない。変化のしかたや身体能力の特徴は、それぞれの状態や感情で変化するもの。

ペットとして好まれることもあれば、気持ちが悪いと嫌煙されることもある。

私は、どこにでもなじむことができると思っている。どこにでも潜り込んで、それなりに活動する。

もちろん、コミュニティの中で浮いてしまったことがまったくないわけではない。幼い頃や若い頃は、仲間外れになったり、自分から壁をつくって人と目を合わせなかったこともある。

でも、だいたいの場面ではそれなりにうまくなじむことができた。

左右の目を別々に動かして、人の動きや表情を見る。小さな変化に気づく。それは特技だと言われることもあるし、自分でもそう思うことがあるけれど、気づかないでいいことや不要な心配や発想が生まれるのには困ってしまうこともある。

私はたぶん、カメレオンなのだ。

アパートに住んでいる頃、隣の部屋に岩手から引っ越してきた女性と仲良くなったことがある。彼女としゃべると、私も自然と東北なまりになった。

話し方に特徴のある友人がいて、その人に会った日の夜は夫に「今日、〇〇さんと合ってた?」と聞かれる。

会うときれいな手芸作品をお土産にしてくれる友人は、美しい敬語で話す。彼女とのメールのやりとりを読み返すと、普段の品格はなんなのだと思うくらいに別人だ。

言葉遣いや話し方が変わるだけではない。相手がすばらしい映画の話をすれば、私もそんな気がしてくる。相手が何かに怒っていれば、その内容はとても極悪なことのように思えてくる。

夫が仕事で疲れて無口になると、私も無口になってしまう。子どもがイライラしていると、私もなんだかむしょうにイライラしたくなる。

「人に合わせるのが上手」なのではない、勝手に無意識に七変化してしまうのだ。

人の長所や短所は表裏一体だ。

人に合わせることで、相手に好感をもたれることも多い。人に合わせることが苦手だったり、器用に自分を変えられない人の話を聞くと、私の個性はほこるべき長所なのだと思えたりする。フリーランスという仕事でも、この特徴のおかげでわりとうまく渡ってきた。

しかし、それぞれの人に合わせることは得意でも、それが複数の人が集まるコミュニティになると一気に不得意になる。どの人に合わせて自分の色を変えればよいかわからないのだ。

思えば小学生の頃から、友達の前での自分と親の前での違いすぎて、親と友達のダブル共演は苦痛だった。そういう場面では、静かにニコニコしているのが精いっぱいであった。

そして、うっかり幅の広さがバレてしまうと「あなたってそういう人だったんだ?」「そんな風にしゃべるんだ」「言ってることが前と違うじゃないか」という具合に、反感を買ってしまうこともある。八方美人だとか、人によって態度を変えるとか、そんな「嫌なヤツ」になってしまうこともある。なんの悪意もないし、損得勘定もない。でも、自分で自分を振り返っても「自分らしさ」のないヤツだって思ってしまうことも多かった。

世の中は「自分の意思を持て」「自分らしさを大事に」「ありのままの自分でいこうよ」

そんなことばかり言う。日によって、感じ方も、考えることも変わる。性別すら変わる私は、どう生きればいいのかな。

カメレオンは、自分が本当は緑色だってことをわかっているのかな。

カメレオンは「自分らしさ」「ありのままの自分」に苦しむことがあるのかなぁ。

カメレオンのことを考えていたら、自分がとてもバカバカしいことで悩んでいるんだとハッとした。

カメレオンに「なんで茶色になってんの?」「さっきと色違くない?」なんて文句を言う筋合いなんてないんだ。カメレオンは元々色が変わる生き物で、図鑑にもWikipediaにも、ちゃんとそう書いてある。

そしてカメレオン自身も、緑色のときも、茶色のときも、灰色のときも、すべてが自分の姿であることを潔く受け入れている。

世の中が「ありのままの自分になれ」と言ってくるわけじゃなくて、カメレオンのクセに猫やオオカミになろうとしていただけだった。

東北なまりの自分も、ちょっと変わったテンションの自分も、上品この上ないときの自分も、ぜんぶあっていい。人にすり寄って何かをだまし取るわけでもない、単純に「同じ色に染まってしまう性質」なのだから。

自分がカメレオンであっていいと思えると、今度は自然に自然に自分が七変化することを「おもしろい」「なんかいいね」って思えるようになったりするもんだ。

それに、カメレオンが本当は緑色だと知らない人なんて、誰もいないってことにも気づくと思うんだ。