もうやりたくないし、これからも続けたい

私は、けっこう長い期間にわたってWEBライターという仕事をしている。1円でもいいから家計の足しにしたいと思って記事作成の仕事に出会ったのが、今から11年くらい前のこと。当時19歳だった。

途中で他のアルバイトをしたり、育児や出産をしたりなんだりでブランク期間をはさんでいるけど、本当に長い期間「書く」ことで対価をもらっていることになる。

思えば私は、文章を書くのがめちゃくちゃ得意だった。というか、周囲から評価されやすかった。

小学生の頃から、なんとなくテキトーに作文を書けば、毎回文集作品に選ばれた。ふざけて書いた作文を、全校集会で読むように言われて死にたくなったりもした。パンクロックバンドのバイオグラフィー本の読書感想文ですら、賞をもらっていた。

書けば選ばれる、という学生時代だったように思う。

そんなことはどうでもいいんだけど、私は別に文章でお金を稼ごうと思ったわけでもなく、作家やライターになることが夢だったわけでもない。ただ、自分が目をつぶってもできることが「書く」ことだっただけであって、まさかそれでお金を稼げるようになるとも、職業にできるとも思ってはいなかった。

つまり、別に好きでもなんでもなかったのだ。

本当の意味で「好きな仕事」なんてないだろう

本当の本当の意味で「好きな仕事」なんて存在するのかなって、私はよく思う。

私は今、ライターという仕事をメインでしているのだけど、ライターの仕事が好きかって聞かれるとよくわからない。

「こんなにいい仕事はない」という気持ちもあるけど「こんなこと一生やっていたくない」という気持ちも、両方あるのだ。

でも、その昔はというと、子育てしながら一般的な職場でパートやアルバイトをしていた。そのときの「生活のしにくさ」と比較したら今は雲泥の差である。自分の家で、自己管理のもとで仕事ができるなんてすばらしい。それに、人間関係のしがらみとか、いじめとか、贔屓とか、そういうものからも一切解放された。

仕事のストレスはほぼほぼ人間関係なんてこともいわれるし、やっぱり「ひとりで仕事する」というスタイルは自分に合っているとしか言いようがない。そこは言い逃れできない。

でも、その一方で

「接客業やってた方が楽しかった気がする」とか「一生こうやってものを書き続けるのなんて嫌」という気持ちも、ある。何もかも全部やめて、工場でひっそりと働こうかと思うこともある。

ないものねだりと言われれば、そうなのかもしれないが、自分的にはそういうのとも違うんだ。

まったく興味のないIT系の記事を書くのが楽しくて楽しくて仕方がないときもあれば、「好きなテーマでエッセイ書いてください」というありがたい依頼に「もうやめたい」って思うことがある。

めっちゃくちゃ難しくて、こんなんでいいのかなっていう原稿に「非常~にわかりやすくて勉強になりました」という編集さんのコメントがついたり「これは傑作だろ」と思う原稿に、バッシバシ直しが入ったりする。これは私の能力が、やっぱりそんなに高くないからだと思うんだけど。

自分の原稿が、知らない人の名前になって公開されているのを見るとやっぱり凹む。何度も見直したのに「誤りがあります、見直しが甘いのでは」と言われると、自分ってやっぱり欠陥品なのかと思う。

でも、また次の原稿を書き始めると無心になっている。

結局「本当の自分」なんか、ないってことだと思う。本当の気持ちとか、心の声とか、よく聞くけど「本当なんかねぇよ」って思う。

だって、人は変わっていくものだから。

人間はその時々で、別人なのだと思う。

「今ここ」とか「今を生きる」ってそういうことではないだろうか。

「目標設定」とか「夢のために」とか、けっこう矛盾してるなって思っちゃう。

だから私は今も「このままライター業で生きていくか!」って思うときもあれば「もう、言われたままの作業をこなすのなんてごめん」と思う日もあって、その揺れに耐えるエネルギーがけっこうしんどいときがあるんだ。

それが人間でしょって、思う。

どうせ自分は変わっちゃう

自己表現とか、自分らしさとか、なんとなく言いたいことはわかる。

大事なポイントのことはわかる。

でも、私は「これが自分です」と、ひとつに絞ってというか、ひとつにまとめて提示するということが本当にできない。

私は毎日、性格も、性別も、趣味嗜好も、やりたいことも、やりたくないことも違う。

人から見るとそうでもないかもしれないけど、自分の中での微妙な変化に、自分は気づいている。でも、それに自分自身がついていけていないのかもしれないなって、ちょっと思った。

毎日同じルーティーンだと安心したり、パフォーマンスが上がったりもする。

でも、毎日同じことを繰り返すことで安心しようとしているのもわかっていて、それをぶっ壊したい気持ちも常に持っている。

「もうぶっ壊しちゃお」って思う日と「いやいや、毎日の積み重ねが大事だ」って思う日も結局ランダムで、自分ってなんなんだろう、何やってんだろうって情けなくなるんだよね。

世の中とか、周りの影響とか、自然のバイオリズムとか、いろいろ影響されやすいからなのか……なんて考えたりもしたけど、理由なんて今はけっこうどうでもいいかなって思う。

「自分とはこういう人です」という自己紹介とか、肩書とか、夢とか、そういうのもういらないや。

私は毎日、別人だから。いろんなことをやっている、よくわからない人でいいのかもなって、思っている。

今日決めた夢とか目標なんて、明日明後日くらいまではまだその気でいられるかもしれないけど、1ヶ月経ったらもう変わっちゃってる可能性の方が大きい。一貫性とか、一度決めたこととか、宣言したのにとか、そういうのもうどうでもいいや。

私は毎日フラフラして生きていればいいやって、思う。

変わっちゃうことが分かってるから、今の自分をひとことでスローガンとか肩書みたいに表現するのがとても苦しくて。

毎回「ただの人間です」って言いたくなっちゃうから、社会的には「なんだかよくわからない人」でもいいのかもしれないな。

生きているだけで、いいわけない

「生きてるだけでいい」

この言葉に納得できないでいた。

なまけものでも、わがままでも

何もしなくても、お金を稼げなくても

生きているだけでいいんだって言う人をよく見かける。

身近な人に「生きてるだけでいいよ」と言われた経験もある。

そのたびに私は

「言いたいことはわかるけど、なんだか納得できないなぁ」

と思っていた。

だから、困っている人や悩んでいる人に

「生きているだけであなたには価値があるんだよ」

なんてことはどうしても言えなかった。

ただ生きているだけなんて。

たとえ「それでいいよ」と言われても

自分自身がそれを望んでいないのではないか。

ただ、生きているだけ。

息をして、宙を見つめて

ゴロゴロと寝転がるのだろうか?

それは、私たちがこの世にやってきてやりたいことでも、やろうとしていることでもないと思う。

少なくとも、これまで学校や社会の色に合わせようと必死になってきた人にとって、それがいかに酷なことであるかが理解できるだろう。

どんな人にも備わっている「知的好奇心」にしたがって、思う方法に進み、成長していく。

それが、私たち人間の願望なのだ。

願望のコントラスト

願望や欲求はときどき「病気」という形に化けて出てくることがある。

願望や欲求を抑え、我慢し、自分の感情や想いを「ないもの」とするとき、身体のあちこちに異常があらわれる。

それを社会では「病気」や「障害」と呼ぶことも多い。

しかし、そのどれもが本当はただの純粋な欲求や本来の願望であり、私たちが人生の中で追い求めているものなのだ。

“生きているだけでいい”

この言葉が心の支えになる人も、いるのかもしれない。

でも、私は、そう言われると余計に腹が立った。

ただ生きているだけでは苦しいから、悩み彷徨うのではないだろうか。

私たちは人形でも、ロボットでもない人間である。人間には、うちに秘める魂の色がある。その色のすべては、多様すぎて追いきれないほどのコントラストを広げている。

自分の色を表現することができない人ほど、深い闇にもぐってしまうんだろうと思う。

I was born.

私たちは、生まれたのではない。

生まれさせられたのだ。

吉野弘氏の詩に、I was born.という名の詩がある。

日本語では「生まれた」「産まれてきた」という能動的表現をするが、英語では受身形となる。

—- I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は

生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね—-

I was born:吉野弘

ある日突然、生まれさせられた。

生まれてくることは、自分で選んだ選択ではない。

なぜか、偶然に、生きることが始まったのだ。

大人の勝手で「生まれさせられ」という前提があったのなら、生まれてからもなお社会の集合的な価値観や意識に合わせて生きるのは酷なことである。

勝手に産み落とされ、さらに根拠の曖昧なルール、要求や期待に応え続けて生きなければならないのは、やっぱり何かがおかしいのである。

どんな状態でも、命ある限り「生きている」ということになる。

それならば、自分の欲求のまま動き、この世界を楽み、遊び尽くすのが、私たちの権利ではないだろうか。

ただ生きているだけではなく、自分の願望のままに進むことを許されたいのではないだろうか。

私たちの生き方を、誰かに許してほしいわけじゃない

「生きているだけでいい」という言葉には「社会にそぐわなくてもいい」「はみ出しものでもいい」「変わり者でもいい」という意味が込められていると思う。

私が、生きているだけでいいと言われることに違和感を持つのは、世の中の常識や普通といったものが前提になっているからだと感じている。

生きているだけでいることを、許可する……つまりジャッジする視点そこにある。

いい・悪い、というのは、誰かに決められるべきものではない。

社会不適合も、はみ出しものも、変わっているのも、全部「普通」という意味の分からない集合意識の周りに存在しているものだ。だからこそ、私たちは落ちこぼれた欠陥品のように扱われるのだろう。

人の気も知らない誰かに「生きているだけでいい」なんて、判定されたくなかったのだ。でも、きっとそんな言葉を言う人には、ジャッジしているつもりも、欠陥品として扱っているつもりもないのだろうけれど、無意識の中にあるとらわれに、私たちは気づいていたのだ。

誰かに自分の生き方を許してほしいわけじゃない。

自分を許して、生きる

もう私たちは

自分を自分で許し、自立し、好きなように生きるしかないのだと悟る。

誰にも干渉されない、誰にも判断を委ねない。

それしか、自由になる方法はない。

とてもシンプルだ。

誰かの許可などいらない。

人の評価など関係ない。

そして、自分を「普通の枠からこぼれ落ちた欠陥品」として扱っているのは、自分自身であったことにも気づくだろう。

やっぱり、生きているだけでは嫌だ。

私たちは、私たちの好奇心が赴くままに、ふと吸い寄せられる方に思い切って進んでいくのだ。

今までやったことがなかった生き方はこわい。

でも、こわさと好奇心はいつだって対になっている。

不安と、ワクワクする気持ちも、対である。

私たちは、誰かの勝手で

こんな世界に産まれさせられたのだから

生き方くらい、誰にも

何にもとらわれなくたっていいのではないか。

それくらい、許してあげるべきなのではないだろうか。

休日の過ごし方で、人生は決まっちゃうらしい

「休日の過ごし方で、人生の質は変わります。

休日の朝を二度寝で潰してしまうのか。

それともジョギングや読書、瞑想などで有意義に過ごすのか……

どちらを選ぶかで、自分の人生の質は決まります」

なんとなく開いたSNSの画面に、こんな文字が並ぶ。

あぁ、なんてうるさいんだ。

大きなお世話だって思いながら、スマホの画面と目を同時に閉じる。

土曜日の朝くらいゆっくり寝たって、人生の質は変わらないと思う。

9時ごろになってようやく体が目覚め始める。

ベッドから降りて、重たい頭のバランスをとるように、ゆらゆらと歩いて1階に降りる。

今日は年に1回のストロベリームーンという日らしい。

満月の前後は、身体がむくんだり、イライラもやもやしたりする。あんまり体調はよくないなぁと思いつつも、窓の外の天気のよさがプレッシャーをかけてくる。

「あっちゃん。草むしりしてくるね」

次男にそう声をかけて外に出ると、次男もついてきた。ふたりで黙々と草をむしる。特にしゃべることもなく、それぞれ熱中する。

ちょっと寂しく感じたので、スピーカーで音楽を鳴らすことにした。外仕事に最適なBluegrass。ただの庭仕事が、まるでライ麦畑に感じてくるのである。

草をむしっていると、向こうから柔道着を着た男の子が歩いてくる。近所の、ペルーと日本のハーフの男の子だ。

「何してるんですか?」

「草取りしてるの」

「へぇ。休日はいつもこうやって過ごしてるんですか?」

「う、うんまぁ……」

「なんかいいですね。じゃあ、汗だくなんで帰ります」

どっちが子どもなんだかわからない会話をして、別れた。

そういわれると、なんだかとってもいい休日を過ごしているような気になってくる。あの子はなんて、いい子なんだろう。

いい気分に浸りながら、昼は冷たいざる蕎麦を茹でて食べた。

昼ご飯を食べ終わったら、少し遠くの大きな公園にでも行って子どもたちを思い切り遊ばせたい。後回しにしていた掃除もしておこう。夕ご飯は少し手が込むけど、酢飯を打って細巻きと稲荷寿司でもしようか。

休日の過ごし方で人生の質が変わるって、さっきはうるさいなって思ってしまってごめんなさい。確かにそれも一理あると思う。

昼ご飯のざる蕎麦を食べて、ちょっとだけ横になりながらそんなことをうつらうつらと考えていた。

目が覚めたら、もう夕方の4時だ。

なんてことだろう。

やっぱり、私の人生はそんなに大した人生にはなりそうもない。

休日の過ごし方で、人生の質は決まっちゃうんだもの。だから私には、このくらいがちょうどよい。

なじめずに、なじんでる私

カメレオンは、身体の色を変えることができ、背景の色に溶け込むことができる。

両方の眼球をそれぞれ個別に動かし、周囲を観察することができる。

必ずしもすべての種が、それをできるわけではない。変化のしかたや身体能力の特徴は、それぞれの状態や感情で変化するもの。

ペットとして好まれることもあれば、気持ちが悪いと嫌煙されることもある。

私は、どこにでもなじむことができると思っている。どこにでも潜り込んで、それなりに活動する。

もちろん、コミュニティの中で浮いてしまったことがまったくないわけではない。幼い頃や若い頃は、仲間外れになったり、自分から壁をつくって人と目を合わせなかったこともある。

でも、だいたいの場面ではそれなりにうまくなじむことができた。

左右の目を別々に動かして、人の動きや表情を見る。小さな変化に気づく。それは特技だと言われることもあるし、自分でもそう思うことがあるけれど、気づかないでいいことや不要な心配や発想が生まれるのには困ってしまうこともある。

私はたぶん、カメレオンなのだ。

アパートに住んでいる頃、隣の部屋に岩手から引っ越してきた女性と仲良くなったことがある。彼女としゃべると、私も自然と東北なまりになった。

話し方に特徴のある友人がいて、その人に会った日の夜は夫に「今日、〇〇さんと合ってた?」と聞かれる。

会うときれいな手芸作品をお土産にしてくれる友人は、美しい敬語で話す。彼女とのメールのやりとりを読み返すと、普段の品格はなんなのだと思うくらいに別人だ。

言葉遣いや話し方が変わるだけではない。相手がすばらしい映画の話をすれば、私もそんな気がしてくる。相手が何かに怒っていれば、その内容はとても極悪なことのように思えてくる。

夫が仕事で疲れて無口になると、私も無口になってしまう。子どもがイライラしていると、私もなんだかむしょうにイライラしたくなる。

「人に合わせるのが上手」なのではない、勝手に無意識に七変化してしまうのだ。

人の長所や短所は表裏一体だ。

人に合わせることで、相手に好感をもたれることも多い。人に合わせることが苦手だったり、器用に自分を変えられない人の話を聞くと、私の個性はほこるべき長所なのだと思えたりする。フリーランスという仕事でも、この特徴のおかげでわりとうまく渡ってきた。

しかし、それぞれの人に合わせることは得意でも、それが複数の人が集まるコミュニティになると一気に不得意になる。どの人に合わせて自分の色を変えればよいかわからないのだ。

思えば小学生の頃から、友達の前での自分と親の前での違いすぎて、親と友達のダブル共演は苦痛だった。そういう場面では、静かにニコニコしているのが精いっぱいであった。

そして、うっかり幅の広さがバレてしまうと「あなたってそういう人だったんだ?」「そんな風にしゃべるんだ」「言ってることが前と違うじゃないか」という具合に、反感を買ってしまうこともある。八方美人だとか、人によって態度を変えるとか、そんな「嫌なヤツ」になってしまうこともある。なんの悪意もないし、損得勘定もない。でも、自分で自分を振り返っても「自分らしさ」のないヤツだって思ってしまうことも多かった。

世の中は「自分の意思を持て」「自分らしさを大事に」「ありのままの自分でいこうよ」

そんなことばかり言う。日によって、感じ方も、考えることも変わる。性別すら変わる私は、どう生きればいいのかな。

カメレオンは、自分が本当は緑色だってことをわかっているのかな。

カメレオンは「自分らしさ」「ありのままの自分」に苦しむことがあるのかなぁ。

カメレオンのことを考えていたら、自分がとてもバカバカしいことで悩んでいるんだとハッとした。

カメレオンに「なんで茶色になってんの?」「さっきと色違くない?」なんて文句を言う筋合いなんてないんだ。カメレオンは元々色が変わる生き物で、図鑑にもWikipediaにも、ちゃんとそう書いてある。

そしてカメレオン自身も、緑色のときも、茶色のときも、灰色のときも、すべてが自分の姿であることを潔く受け入れている。

世の中が「ありのままの自分になれ」と言ってくるわけじゃなくて、カメレオンのクセに猫やオオカミになろうとしていただけだった。

東北なまりの自分も、ちょっと変わったテンションの自分も、上品この上ないときの自分も、ぜんぶあっていい。人にすり寄って何かをだまし取るわけでもない、単純に「同じ色に染まってしまう性質」なのだから。

自分がカメレオンであっていいと思えると、今度は自然に自然に自分が七変化することを「おもしろい」「なんかいいね」って思えるようになったりするもんだ。

それに、カメレオンが本当は緑色だと知らない人なんて、誰もいないってことにも気づくと思うんだ。