
「生きてるだけでいい」
この言葉に納得できないでいた。
なまけものでも、わがままでも
何もしなくても、お金を稼げなくても
生きているだけでいいんだって言う人をよく見かける。
身近な人に「生きてるだけでいいよ」と言われた経験もある。
そのたびに私は
「言いたいことはわかるけど、なんだか納得できないなぁ」
と思っていた。
だから、困っている人や悩んでいる人に
「生きているだけであなたには価値があるんだよ」
なんてことはどうしても言えなかった。
ただ生きているだけなんて。
たとえ「それでいいよ」と言われても
自分自身がそれを望んでいないのではないか。
ただ、生きているだけ。
息をして、宙を見つめて
ゴロゴロと寝転がるのだろうか?
それは、私たちがこの世にやってきてやりたいことでも、やろうとしていることでもないと思う。
少なくとも、これまで学校や社会の色に合わせようと必死になってきた人にとって、それがいかに酷なことであるかが理解できるだろう。
どんな人にも備わっている「知的好奇心」にしたがって、思う方法に進み、成長していく。
それが、私たち人間の願望なのだ。
願望のコントラスト
願望や欲求はときどき「病気」という形に化けて出てくることがある。
願望や欲求を抑え、我慢し、自分の感情や想いを「ないもの」とするとき、身体のあちこちに異常があらわれる。
それを社会では「病気」や「障害」と呼ぶことも多い。
しかし、そのどれもが本当はただの純粋な欲求や本来の願望であり、私たちが人生の中で追い求めているものなのだ。
“生きているだけでいい”
この言葉が心の支えになる人も、いるのかもしれない。
でも、私は、そう言われると余計に腹が立った。
ただ生きているだけでは苦しいから、悩み彷徨うのではないだろうか。
私たちは人形でも、ロボットでもない人間である。人間には、うちに秘める魂の色がある。その色のすべては、多様すぎて追いきれないほどのコントラストを広げている。
自分の色を表現することができない人ほど、深い闇にもぐってしまうんだろうと思う。
I was born.
私たちは、生まれたのではない。
生まれさせられたのだ。
吉野弘氏の詩に、I was born.という名の詩がある。
日本語では「生まれた」「産まれてきた」という能動的表現をするが、英語では受身形となる。
—- I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は
生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね—-
I was born:吉野弘
ある日突然、生まれさせられた。
生まれてくることは、自分で選んだ選択ではない。
なぜか、偶然に、生きることが始まったのだ。
大人の勝手で「生まれさせられ」という前提があったのなら、生まれてからもなお社会の集合的な価値観や意識に合わせて生きるのは酷なことである。
勝手に産み落とされ、さらに根拠の曖昧なルール、要求や期待に応え続けて生きなければならないのは、やっぱり何かがおかしいのである。
どんな状態でも、命ある限り「生きている」ということになる。
それならば、自分の欲求のまま動き、この世界を楽み、遊び尽くすのが、私たちの権利ではないだろうか。
ただ生きているだけではなく、自分の願望のままに進むことを許されたいのではないだろうか。
私たちの生き方を、誰かに許してほしいわけじゃない
「生きているだけでいい」という言葉には「社会にそぐわなくてもいい」「はみ出しものでもいい」「変わり者でもいい」という意味が込められていると思う。
私が、生きているだけでいいと言われることに違和感を持つのは、世の中の常識や普通といったものが前提になっているからだと感じている。
生きているだけでいることを、許可する……つまりジャッジする視点そこにある。
いい・悪い、というのは、誰かに決められるべきものではない。
社会不適合も、はみ出しものも、変わっているのも、全部「普通」という意味の分からない集合意識の周りに存在しているものだ。だからこそ、私たちは落ちこぼれた欠陥品のように扱われるのだろう。
人の気も知らない誰かに「生きているだけでいい」なんて、判定されたくなかったのだ。でも、きっとそんな言葉を言う人には、ジャッジしているつもりも、欠陥品として扱っているつもりもないのだろうけれど、無意識の中にあるとらわれに、私たちは気づいていたのだ。
誰かに自分の生き方を許してほしいわけじゃない。
自分を許して、生きる
もう私たちは
自分を自分で許し、自立し、好きなように生きるしかないのだと悟る。
誰にも干渉されない、誰にも判断を委ねない。
それしか、自由になる方法はない。
とてもシンプルだ。
誰かの許可などいらない。
人の評価など関係ない。
そして、自分を「普通の枠からこぼれ落ちた欠陥品」として扱っているのは、自分自身であったことにも気づくだろう。
やっぱり、生きているだけでは嫌だ。
私たちは、私たちの好奇心が赴くままに、ふと吸い寄せられる方に思い切って進んでいくのだ。
今までやったことがなかった生き方はこわい。
でも、こわさと好奇心はいつだって対になっている。
不安と、ワクワクする気持ちも、対である。
私たちは、誰かの勝手で
こんな世界に産まれさせられたのだから
生き方くらい、誰にも
何にもとらわれなくたっていいのではないか。
それくらい、許してあげるべきなのではないだろうか。